作業現場での化学物質のリスク管理、しっかり行えていますか?
2014(平成26)年の労働安全衛生法改正により、一定の危険性や有害性が確認されている化学物質について、リスクアセスメント(危険性の見積もりと評価)の実施が義務化されました。このリスクアセスメントを正確かつ定量的に行うための強力なツールが「個人サンプラーを用いた個人ばく露(ばくろ)測定」です。
そして、この測定において現在主流になりつつあるのが、ポンプを使わない「パッシブサンプラー」です。
この記事では、これから作業環境測定や個人ばく露測定を学ぶ方に向けて、パッシブサンプラーの仕組みから、国際的な性能評価の基準、そして実際に現場で使用する際の注意点までを3つのステップでわかりやすく解説します。
パッシブサンプラーとは?(基本編)
化学物質が空気中にどれくらい漂っていて、作業者がどれくらい吸い込んでいるのかを調べるためには、空気を集めて分析する必要があります。そのための機器が「サンプラー」です。
アクティブサンプラーとパッシブサンプラーの違い
サンプラーには大きく分けて2つの種類があります。
- アクティブサンプラー(能動的)
吸引ポンプを使い、電気の力で強制的に周囲の空気を吸い込んで測定対象物質を捕集する機器です。「掃除機」のように空気を吸い込むイメージです。 - パッシブサンプラー(受動的)
吸引ポンプを一切使わず、空気の自然な動き(拡散)を利用して物質を捕集する機器です。「脱臭炭」や「スポンジ」が周囲の成分を自然に吸い込むイメージです。
パッシブサンプラーの最大の特徴は、小型・軽量で電源(ポンプ)が不要であることです。作業者の襟元などに装着しても、重さやモーター音がなく、作業の負担にならないという大きなメリットがあります。
どうやって空気を吸い込まずに捕集するの?(捕集原理)
「ポンプを使わないのに、どうやって化学物質を集めるの?」と疑問に思うかもしれません。パッシブサンプラーは、「フィックの拡散理論」という物理法則を応用しています。
フィックの拡散理論とは?
物質は「濃度の濃い場所(高濃度)」から「濃度の薄い場所(低濃度)」に向かって自然に移動するという法則です。水にインクを1滴落とすと、勝手に全体に広がっていくのと同じ現象です。
パッシブサンプラーの内部には、活性炭などの「捕集剤」が入っています。
- サンプラーの入り口(開口面)は、作業環境の空気に触れているため「高濃度」になります。
- サンプラーの奥にある捕集剤の表面は、化学物質を吸着するため常に「低濃度(ほぼゼロ)」に保たれます。
- この「濃度の差(濃度勾配)」により、化学物質が入り口から奥の捕集剤に向かって自然に移動し、捕集されます。
この仕組みにより、「捕集された量」と「測定した時間」から、作業者が吸い込んだ空気中の平均濃度を計算できるのです。ポンプの吸引量(流量)に相当するものを、パッシブサンプラーではサンプリング速度と呼びます。
パッシブサンプラーの歴史
パッシブサンプラーの歴史は意外と古く、1973年にPalmesらが労働衛生の分野で初めて論文を発表しました。初期は小瓶に穴を開けただけのシンプルな構造でしたが、1970年代後半から1980年代にかけて、3M社やDu Pont社などから有機溶剤用のバッジ型サンプラーが次々と製品化されました。
現在では、ガステック社からその場で濃度が直読できる「パッシブ型検知管」なども販売されており、対応する化学物質の種類も飛躍的に増えています。
パッシブサンプラーは信頼できる?(性能評価編)
「ポンプを使わないで本当に正確に測れるの?」という懸念を払拭するため、1970年代後半から世界中でアクティブサンプラーとの比較や、温度・湿度など環境要因の影響について膨大な研究が行われました。
世界の厳しい評価基準(プロトコール)
現在、パッシブサンプラーの性能を評価するための厳格な試験基準が存在します。代表的なものが以下の2つです。
- NIOSHプロトコール(米国):1987年に米国国立労働安全衛生研究所が公表。
- CENプロトコール(欧州):1995年に欧州標準化委員会が公表(内容はNIOSHとほぼ同等)。
これらのプロトコールでは、製品が本当に信頼できる数値を出すか、以下のような多岐にわたる過酷なテスト(フルテスト)を要求しています。
| 試験項目 | テストの内容(目的) |
| 分析操作の回収率 | 捕集した物質を、分析時にどれだけ正確に取り出せるか(回収できるか)を確認する。 |
| サンプリング速度と容量 | 濃度や測定時間を変え、どれだけの時間・量の捕集に耐えられるか(最大・最小時間)を決める。 |
| 再拡散(逆拡散) | 一度捕集した物質が、濃度ゼロの環境に置かれたときに逃げてしまわないかを確認する。 |
| 保存性 | 捕集後、常温(25℃)や冷蔵(5℃)で14日間放置してもデータが変化しないかを確認する。 |
| 環境因子の影響 | 風速、湿度(80%など)、他の物質の干渉、サンプラーの向きなどによる影響を調べる。 |
| 温度の影響 | 10℃、25℃、40℃と気温が変化した際に、測定値にズレが生じないかを確認する。 |
| 作業場での実証測定 | 実際の現場で、ポンプを使う従来のアクティブサンプラーと結果を比較し、相関性を証明する。 |
※日本国内では、室内のホルムアルデヒド測定用のJIS規格はありますが、作業環境用のパッシブサンプラーに特化した試験実施要領はまだ整備されていません。しかし、国内で流通している主要なパッシブサンプラーは、海外の厳しい基準(NIOSH等)に準拠、または同等の妥当性確認が行われた信頼性の高いものです。
現場で使うときの5つの留意事項(実践編)
パッシブサンプラーは非常に便利ですが、原理上「風」や「時間」などの影響を受けるため、正しい使い方を知っておく必要があります。
サンプリング速度は「実験値」を使う
サンプリング速度(捕集するスピード)は、物質の拡散係数やサンプラーの形状から「理論値」を計算できます。しかし、実際には捕集剤の表面状態などの影響を受けるため、理論値とわずかにズレることがあります。
そのため、測定結果の計算にはメーカーが実験によって求めた「実験値」を使用してください。また、物質ごとにサンプリング速度は異なるため、必ず対象物質専用の数値を用いることが重要です。
風(気流)の影響に注意
パッシブサンプラーが正しく働くには、入り口付近の空気が常に入れ替わっている必要があります。無風状態(気流速度 0.05 m/s未満)になると、入り口付近の対象物質が薄くなってしまい、測定値が実際の濃度より低く出てしまいます(過小評価)。
- 問題ないケース:
作業者の襟元に付ける場合。作業者自身が動くことで相対的に 0.50 m/s 程度の風を受けるため、サンプリング速度が低下することはありません。 - 注意すべきケース:
完全に無風の密室にポツンと固定して置くような使い方は、個人ばく露用のパッシブサンプラーでは正しく測定できません。(無風用の特殊なチューブ型サンプラーを除く)
なお、風が強すぎる場合(2.0 m/sなど)は、測定結果に悪影響を与えないことが実験で確認されています。
温度・湿度・気圧の影響
- 気圧: 影響はありません。
- 温度: わずかに影響がありますが無視できるレベルです(25℃から31℃に上がっても、捕集量は約1%増える程度)。
- 湿度: 湿度が高い状態(高湿度)が続くと、活性炭などの捕集剤が水分も吸着してしまうため、本来の対象物質を吸着できる「総容量(キャパシティ)」が減少します。極端な高湿度環境での長時間測定には注意が必要です。
短時間すぎる測定はNG(応答時間の問題)
パッシブサンプラーは、ポンプで強制的に空気を吸い込むアクティブサンプラーに比べ、内部に安定した「濃度の坂道(濃度勾配)」ができるまでに少し時間がかかります。これを「応答時間」と呼びます。
拡散の距離が 1.0 cm のサンプラーの場合、応答時間は実験や解析により「5秒〜15秒程度」とされています。そのため、数秒〜数分で終わるような極端に短い作業の測定には向いていません。基本的には「15分以上」の測定であれば問題なく使用できます。
アクティブサンプラーとの高い相関性
過去の膨大な比較データから、正しく使用すればパッシブサンプラーは、ポンプを使うアクティブサンプラー(活性炭管)と極めて高い相関関係(同じ結果が出ること)が認められています。
まとめ:パッシブサンプラーはこれからの主流へ
いかがでしたでしょうか。パッシブサンプラーは、労働者の負担を減らしながら精度の高い測定ができる、非常に優れたツールです。
- ポンプ不要で小型軽量(作業者の負担が少ない)
- フィックの拡散理論を利用して正確に捕集
- NIOSHなどの厳しい国際基準で性能が証明されている
- 使用時は「15分以上の測定」「無風状態を避ける」点に注意
個人サンプリング法による作業環境測定でも、パッシブサンプラーを用いた手法が本格的に導入されます。正しい知識と注意点を理解し、安全な職場づくり・確実なリスクアセスメントにぜひ活用してください。


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